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歴史2そしてAON

ジャンボは日本のプロゴルファーとして、企業とのプロ契約1号選手である。当然相手は日東興業であり、新人選手としては破格といえる当時200万円の契約である。これに続いたのは、マルマンと契約した安田春雄。あのガッツ安田!寅さんの弟子である。このように企業との契約という道筋をつけたこともジャンボの大きな功績のひとつである。
そして、最もゴルフ界にとっての影響になったのは、他のプレイヤーが野球からポットでの新人に負けてなるものかと、プロとしてのプライドをかけて、打倒尾崎に燃えたことでプロゴルフトーナメントが活性化したことであり、ファンも熱狂したのである。真剣勝負に惹きつけられたわけだ。ジャンボがはじめてマスターズに出場したのは1972年。河野高明氏と出場している。このころ日本にはマスターズの中継などないばかりか、アメリカでも2州で中継しているだけというのは今にして信じがたい事実である。しかも、河野高明氏は1970年マスターズで9位に入りリトルコーノとして人気者であったが、日本ではこの快挙も知られていなかった。このころジャンボは日東興業につづき、パリス、パワービルト、シャープなどと契約を次々と結んでいる。そして、弟のジェットのプロ転向、ジョーの進学を千葉にさせるなど、初出場のマスターズを控え、頭を悩ませていたようである。はじめてのマスターズは初日74の25位、2日目に80を打ち予選落ちした。このときジャンボはコースの黒人キャディーを使っていたが、南部訛りにまったくコミュニケーションできなかったようである。このあとジャンボはオーガスタを最後まで見届け、世界のプレイヤーをギャラリーになり目に焼き付けている。この年の優勝はジャックであり、とことんジャックのプレーを追いかけたそうである。その思いを胸に同行していたジェットとの帰路になんとロスの空港でギヤトラブルによる胴体着陸を経験している。もしこのとき大惨事になっていたらと思うと・・日本のゴルフシーンは大きく様変わりしていたであろう。
1972年のトーナメントは総額3億円を突破している。1試合1千万をこえての試合が主流となってきた。帰国後のジャンボは人気の勢いはとまらなかったが、調子は出なかった。というより皆がジャンボの前に立ちはだかった。グラハムマーシュもこの年ダンロップで初優勝している。輪厚では青木さんを逆転して優勝したが、村上隆さんも台頭してきた年である。関東プロでは青木さんにプレーオフでリベンジされるが、関東オープンでは青木さんを突き放しお返しの優勝をしている。日本プロでは金井清一さんにやぶれて2位。東海クラシックではハットマン新井の初優勝。第1回産報クラシックではガッツ安田がジャンボを抑えて優勝。しかしながら、若きジャンボは国際大会に強かった。第1回太平洋マスターズは総武カントリーで行われ、R・Tジョーンズが27ホールから18ホールをピックして7000ヤードパー71で行われた。優勝はゲイブリューワーがデビッドグラハムとのプレーオフを制して勝ち取ったが、ジャンボは最終日66をたたいて4位に食い込み、翌年のマスターズ出場を手にした。この1973年のマスターズから日本からも大挙してメディアがマスターズへ取材をするようになったのだ。そして、この年289で8位タイに入りリトルコーノの記録を塗り替えている。
この1973年、コンコルドもブレイクしている。札幌東急オープンで追いすがるミスタールーを振り切り優勝した青木さんは、優勝賞金200万の半分を北海道の身体障害者施設に寄付している。青木さんいわく「金が有り余ってはいねえけど、前々から社会のためになることをしてみたかったんだよ」。そういえば1969年の関東プロに優勝した安田春雄さんも優勝賞金50万円を全額寄付しているのだ。そして、1973年もうひとつの動きは18歳のトミー中島が軽井沢西コースで日本アマに初優勝している。トミーは最初はサイボーグ中島というニックネームであった。そして、第2回太平洋マスターズで日本のプロは絶対勝てないだろうといわれていたこの大会でジャンボは278でバートヤンシーとならんでプレーオフに持ち込み、3ホールのストロークプレーのプレーオフを制して優勝したのである。バートヤンシーも、この年エキジビションでジャンボと戦ったジャックニクラスも「ジャンボは世界で通用する立派なプレイヤーであり、4大メジャーで十分チャンプイオンになれる資格がある。ぜひ世界に出てきて戦って欲しい」とコメントしている。良くジャンボは外国嫌いとか無責任に評価されているが、誰よりも世界で戦いたかったのはジャンボ本人であり、この二クラス立ちの誘いに乗って、一人世界で戦うことができればと考えたことだろう。しかしながら、自らの環境と現実問題を考え、その選択をしなかったようである。TPOとも、天地人ともゆおうか・・・この天のときをジャンボが素直に受け入れることができる環境だったら・・・とことん悔やまずにはいられないだろう。
その昔、宮本留吉さんや戸田藤一郎さんがアメリカウインタートーナメントで大活躍し、ボビージョーンズをエキジビションで破った宮本翁の1ドル紙幣の話も有名だが、先達たちに活躍が、アメリカジャーナリストに「ライダーカップはいずれ日本と合間見えることになるだろう」と言わしめた時代から、ジャンボの世界へのチャレンジを阻む何かがあったとしたら、日本のゴルフが世界にたいして後塵を拝しているのも悲しい現実として受け止めた上で、先を見据えなければならないだろう。それが歴史なのだから・・・・
by nazonohustler55 | 2008-01-09 01:22
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